真夏のエジプトへ行こう!

  
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2001年7月8日

あまりに盛りだくさんの一日になった。なにせ朝の5時から動いているからなあ。ルクソールを降り、シャイ屋にたむろする客引きの集団を振り切って、まだ暗い通りを歩き始めた。実はこのあたりは詳しくない。うーん、やばいかなあと思っていたら、客引きがひとりついてきていた。面倒なので、ガイドブックを作ろうとしている旨を伝え、あとで、彼のホテルにも取材にいくことを条件に、今晩泊まろうと思っているホテルへ案内してもらうことにする。

なかなか面白い人たちにであった。一人はインターネットカフェの写真をとっていた時。パソコンで書類を作っていたイギリス人のおじさんが話し掛けてきた。「ぼくの会社はバルーンを飛ばして、観光客に上空から王家の谷を案内している。日本人にも紹介したい。」結局、翌日の早朝に飛ばすバルーンにスペースがあれば乗せてもらい写真をとることになった。うーん、前はこんなのなかった気がする。オプションツアーとしてあったら、人気だろうなと思った。(料金が200ドルと高めだが)

もう一人は、オアシスホテルという安ホテルのスタッフ。なかなか陽気なエジプシャンで、そのホテルには泊まらないものの、いろいろ親切にしてもらえた。まあ、旅行者としてきたら、「追加で10ポンド必要だよん。」などと平気でふっかける彼の常識にむっとしたかもしれないが。。。

そこで自転車を借りて、4−5星ホテルをまわっていたときのこと。ひとりの日本人女性にあった。イシスホテルのゲストリレーションをしている人だ。同じホテルのセールスディレクターが彼女のご主人で、この出会いは確かに神の思し召しかもしれない。東工大を卒業して、日本のマイクロソフト社に勤めていた彼は、まったく同じ情報サイトを作る構想を持っていた。私には、日本でマーケティングをしていくことができるが、エジプトの現地情報をリアルタイムに配信していったり、エジプトで高級ホテルや観光関連の企業に対してセールスをしていくことはできない。彼らは、エジプトの観光関連企業とのコネクションがあり、かつプログラミングがばっちり。すでにサーバもドメインも用意しており、ビジネスモデルもしっかりしている。1時間半ほど話をして、共同でこのプロジェクトを進めるための検討していくことにした。具体的な部分については、翌日詰めることに。

夜、アラベスクホテルの屋上からルクソールの夜景を見ながら、ずっとこのプロジェクトを共同で進めることを考えていた。どうコストやプロフィットをシェアしていくか、ビジネスモデルは?薄利の旅行代理業に落ち着くことがないようにしたいが、そのためには?そもそも日本ーエジプトの観光マーケットはどのくらいのものなのだろう・・・。などなど。

【デジカメ】
ちょっと便利な使い方ができる。最初にであった客引きのムハンマドを、彼のホテルので撮影した。その写真をたまたま見たオアシスホテルの人が「こいつは最悪のやつだ。以前、日本人のお茶に薬を入れて泥棒を働いたやつだ。ツーリストポリスに見せたら、同じことをいうぜ。」へーっと思いながら話半分に聞きつつ、ちょっと面白かったので他のホテルの人にも見せたら、同じようなことを言う。別のホテルの人も、顔をみただけで「ああ、△△ホテルのホモ野郎だ。」周りの人ともアラビア語で、いや、ホモじゃないただの悪党だとか、いやあいつはだれそれとできている・・・などと議論している。
「エジプト観光サイトを作るためにきている日本人女性がいる」というのが狭い町でちょっとだけ広がり、街角でお昼ご飯を食べていても「うちのホテルを写真にとりにきてくれ」などと声がかかるようになってしまった。競争が激しいのか、旅行者が少なくて暇なのかわからないが。

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2001年7月7日

サファリホテルを訪れた。10年前に何度も通った場所だ。そのときのスタッフはさすがにいなかったが、さらに「日本人宿」になっている。日本語のいろいろな情報が、ファイルにもなって収められていたり、宿泊者が「サファリホテル生活向上委員会」なるサイトも作っている。うーん、すごい。懐かしむ人たくさんいるとおもうので、後で写真をアップします。
そのあと、いくつか安ホテルをまわりながら、アタバ広場へ。観光客向けのハンハリーリ市場とは違い、生活用品から建具までが、商品別に路地に固まっており、エキサイティングな場所。案の定、歩き回っていたらすぐに迷路に入り込んでしまった。

ここでは、本当に人が親切で、「ああ、観光客が間違って入り込んでしまったよ」とばかりに、いろいろな人が身振り手振りで、ハンハリーリはあっちだ、アタバはこっちだ、どこへ行こうとしている?と教えてくれる。ルクソールやタハリール広場で強引な客引きを体験したツーリストが、一切の親切もシャットアウトしてしまうことがあるが、それは申し訳ないような、またもったいないような気がする。やばいと思ったらすぐにNOと一言いえばいいのだから、本当の親切心まで無視してしまうことがないようにしたいものだ。

【寝台列車】
ガイド時代によく乗っていたが、個人的にこのばか高いチケットを購入して利用したのははじめて。でも乗る価値はあるかも。列車は、ナイル川沿いにひたすら南下する。ナイル川沿いには、たくさんの町が点在しており、コンパートメントの電気を消して外を眺めると、モスクの緑の明かりがついた尖塔、踏切を待つラクダ荷車、ガラベイヤを着た老人たちなど、次から次にいろいろな風景が移り変わる。外の音がほとんど聞こえないので、不思議な感覚だ。

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2001年7月6日

ホテルも国内移動のチケットも手配しないで旅行に行くと、自由度が高い反面、時間を無駄遣いしてしまう時がある。 今日がそれだ。ただで泊めてくれると言っていたホテルのオーナーは留守、ルクソール・アスワンまでの寝台夜行列車のチケットを取ろうとしたら、両替やらチケット受け取りで2時間近くもかかってしまった。今日はイスラム教の休日、金曜日だし、あまり目的をもたずにぶらぶらする日にしよう。せっかちな私も、そう決めると急に気分が楽になった。
旅行って、つい、毎日何かをしないと「損」した気になってしまうんですよね。

【礼拝】
イスラム教の国を旅行した人がまずカルチャーショックを受けるのが礼拝。特に、金曜日の昼すぎの礼拝の時間など目立つのだが、商店街の歩道にざあっと緑のカーペットが敷かれ、多いところで50人以上の人が一同に介して礼拝を行っている。(もちろんモスクの中でのほうが多いのでしょうが)街角を曲がった瞬間に、そんなコーナーの先頭にぶちあたってしまって、つい慌ててしまうこともある。モスクの拡声器から流れる声にあわせて、一斉に額を地面につける風景は、宗教を知らない私には、必要以上に「絶対に邪魔してはいけないもの」に思え、車にひかれそうになりながら、慌てて反対側の歩道に移ったりする。カメラどころか、じっと見ていてもいけないような気がしてしまうのだ。

実際には、礼拝姿は日常生活の中にすっぽり入っているので、礼拝をしていない家族連れ買物客などは、敷物を踏まない程度にまわりこんで、その横を通り過ぎているし、車もバイクもそのすぐ横を走る。うーん、なにか違和感がある。
ところで、どうでもいいことだが、あのカーペットは誰が敷くんだろう?ごみ収集個所に指定された家の人が、収集日の早朝にカラスよけネットを広げているように(世田谷だけか?)その前のお店などが担当しているのかなあ。誰に聞けばいいのかわからないけど、気になってしまった。

明日の夜は、寝台夜行にのってナイル川沿いにルクソールへ向かいます。

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2001年7月5日

「アッラーフ・アクバル」とこぶしのきいた祈りを呼びかける声が、響き渡る。今、ここは日没したばかりの夜8時。
懐かしさを感じたのは、最初の一瞬で、すぐに10年前、暮らしていたときの感覚に戻ってしまった。

だらだら書いてもなんなので、トピックをいくつか決めて記すようにしようと思う。

【メトロ】
地下鉄ができていた。しかも、カイロ市内の東西南北(といっても東西は狭いが)にわずか数十円で自由にいくことができる。
「タクシーの運転手と激しい値段交渉する必要がない」「市内バスの扉から振り落とされないようふんばる必要がない」ということで、 旅行者にとっても、移動が楽になった。

しかし、帰宅ラッシュ時のすさまじさは日本なみ。 日本と違うのは、ラッシュすらも楽しんでしまっているようなノリのよさ。 飛び込み乗車で扉にはさまれ必死にもがく人に対し、車内から歓声があがるのだ。 「おら!頑張れ、もうちょいだ!」「潔くあきらめろ!」みたいなことをを楽しげに叫んでいるのは、どう見ても30代後半から40代半ばと思えるおじさんたち。 応援というか野次? 
でも、扉にはさまれてううっ、とかうめいている人がいても、他の人はしーんとしている日本のほうが、もしかしたら不気味なのかもしれないけどね。

今日は、1900年創業のウィンザーホテルというところに宿泊。取材名目でもあるので、一番豪華な部屋を半額で提供してくれた。 周りはダウンタウンなので、これからちょっと散歩にでかけようと思う。夜歩きは危ない・・・と思われるかもしれないが、 暑い国なので、この時間になると人通りが増えたりもする。残念なことに、このホテルは「歴史的」すぎて部屋からネットアクセスができないので、 どこかでインターネットカフェを見つけてみようと思う。

2001年7月4日

成田16:00発のエジプト航空にて、10年ぶりのカイロに向かう。
「おっ、結構日本人がいるぞ」と思っていたのは経由地のバンコクまでで、気がつくとまわりはエジプト人ばかり。 「おれの席、51Dってどこだ」「おい51Dだって」「ここは47だ」・・・。通路の先頭の人からどんどん自分の席につけばいいのに・・・と思うのだが、面倒見がいいのか、おせっかいなのか、 叫び声と荷物が頭上を飛び交い、なかなか席につけない。早くも記念撮影する人、座席交換の交渉を個別にする人で機内は混沌とする。
飛行中にトラブルが発生して、酸素マスクつきのチューブが上から降りてきても、きっとこんな感じで、混乱するんだろうなあ。。。 などと考えると、ちょっと怖くなる。完全に忘れてしまったと思っていたアラビア語だったが、記憶の引き出しの中には残っていたようで、少しずつ思い出してきた。よし!

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JOHO-KAN A.Wada<egypt@joho.st>
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