真夏のエジプトへ行こう!

  
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2001年7月15日

ホテルのスタッフがガイドするカイロツアーにただで参加させてもらった。のりがよく、地下鉄情報から他都市への行き方まで、細やかに教えてくれるMr.サミーのガイドは楽しい。モスクとパピルス屋、ピラミッドに行った。ピラミッドの周囲を2時間半も歩いてしまった。前にきたときは、いつもツアー客といっしょだったので、ゆっくりまわったのはほとんどはじめて。10年前に、夜中にこのエリアに忍び込んで頂上までのぼったことがある。(もちろん禁止されている)今みても、石はひとつひとつが結構大きく、かなり崩れている。足の短い私、一歩間違えれば命はない。若気の至りとはいえ、「よくのぼったなあ」

そして夜。チケットがない。前夜に購入した、23:00カイロ発、シャルムルシェイク行きだ。しかも気が付いたのが長距離バスステーション。必死にカバンを探しまくったが見つからず、ホテルに戻る。慌てていると悪いことばかり続く。道路を渡ろうとして、こけた。幸い中央分離帯近くだったからよかったものの、ちょっと場所が違ったら、エジプト人の人だかりができる惨事になっていたかも。(カイロでは走る車の間を「泳ぐように」わたらなくてはいけない)結局、チケットはどこかで無くしたらしく、幸い次の23:30のバスのチケットの最後の数枚のうちの一枚を購入でき、カイロにもう一泊とどまることだけは避けられたが、ホテルも一緒で、結局バスも一緒になった英国人に「ホテルでさよならをしてからテリブルタイムを過ごしていたんだね」と慰められた。テリブルタイムという語彙を覚えただけでよかったとしよう。

【公衆電話】
プリペイド式のきれいな公衆電話が街中に多数できた。文房具屋さんや雑貨やさんで、カードを購入できる。昔は、小銭がなくって、いちいち近くの人に両替してもらってかけていたのと、壊れている電話が多くて不便だった。「この携帯電話は、電源がオフになっています」「間違った電話です」などのメッセージは、どれもアラビア語と英語の二本立て。そういえば、日本って、日本語だけだったっけ。在日外国人とか旅行者って、やっぱり不便だな。

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2001年7月14日

カイロに戻ってきた。お気に入りのウィンザーホテルに再宿泊。はじめてエジプトにきた時に滞在して10日ほどを過ごしたガーデンシティを歩いてみた。やはり最初にどきどきはらはらしながらうろついていた場所の記憶は深く刻まれている。10年経っても変わっていない店が多く、うれしかった。
荷物が増えたので、大きな旅行カバンをひとつ購入した。サッカーの試合があり、カバン屋さんの店員もテレビにくぎづけ。「来年、日本と韓国でワールドカップがある。エジプトの応援をしれくれるか?」と聞かれたので「旗をもって応援にいくよ」と軽く答えたら、ひどく感動され手厚い歓迎をうけてしまった。

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2001年7月13日

一日、観光にあてた。アブ・シンベルやイシス島などをバスでまわるツアーに参加したのだ。ホテルであった日本人(苗字を忘れてしまった)と一緒に参加した。以前は、飛行機で行く以外の方法がなかったのだが、4ヶ月前からバスで行くことができるようになったとのこと。思い切り経費節減ができた。バスは、アブ・シンベルへ向かう道の途中でとまり、4時半に一斉に出発。警察の車両が前後を警備しながら走るとか。確かに、王家の谷と並ぶ観光名所だから、こちらが狙われたら、大変なことになるわけだ。陸路は道がないとばかり思っていたが、きれいに舗装された道があり、驚いた。アブ・シンベルは3度目くらいだが、あらためて感動。なんだって、こんな奥地にこれほど巨大な神殿を作るのか。またまたそれを湖に沈めてしまうことがないようにと、そのまんま上部に移設したというのもすごい。

【外国語その2】
「写真とってもらえます?」といわれ英語だと「オフコース」といったり、アラビア語だと「どうしてだめなことがある」などと言ったりする。そんな日が続くと、日本語で「写真とってもらえる?」といわれると、なぜか「もちろん」と答えてしまう。普段は「いいですよ」というのに。ちょっと待ってというしぐさや電話ジェスチャーも、エジプト的になる。NOも最初はにこにこしながら「いやーいいですよ」と日本人的に控えめな断り方をしてたのに、今では一言「ラ(NO)」と言い切る。人ってすぐ順応しちゃうものですね。

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2001年7月12日

昼間はホテル周りとフルーカ(実際にはボートだったが)。ついた日に、駅前のツーリストインフォメーションで、「明日は、鉄道敷設150年記念で駅前でフェスティバルがある」と聞いていた。実際、いつもは比較的静かな駅前にたくさんの人が集まって、電飾をとりつけていたり、線路のようなものを作っていたり、踏切まで置いている。どうも、工事の現場風景を再現しようとしているようだ。
夜、行ってみた。駅は派手な電飾できれいに浮かび上がっていた。そしてどこからでてきたのか、と思うようなたくさんの人。駅前には作りかけの線路と工夫役の人、クレーン車などが置かれ、昔の写真などが飾られていた。そしてカーペットが長くしかれている。警察もたくさん集まり、人がそれより前にでないようにしているので「だれかえらい人がくるの?」と行ったら、なぜか通してくれた。カメラを持った外国人はOKなようだ。よく見ると、ちょっと離れたところで、ツーリストインフォメーションの所長さんがOKサインをだしている。来ていたのは、ミニストリー・オブ・トランスポーテーション(運輸大臣か?)。鉄道会社の社長さんみたいな人から写真ひとつひとつの説明を受けながら、たくさんの随員やカメラマンに囲まれてあるいている。押し出されるように、その前にでてしまった私に、なぜかテレビカメラが向けられた。(これは、ただぼーと見ているわけにはいかないかも)と、私もカメラのシャッターを切り始めた。ナレーションが入ったかどうかはともかく、外国人も関心を持って撮影に来ている・・・という図がほしかったのだろう。ちょっと貴重な体験だった。
その後、ホテルのオーナーに自宅に招かれた。弟の奥さんが作ってくれたのは、レストランでは食べられない家庭料理。まじでおいしかった。ホテルで出会った日本人男性を誘っていっしょに行ったのだが、もっと食え、まだあるぞ、の声に必死に食べながら、最後には「つらいよ」「もう無理だよ」と日本語でこぼしながら、必死に食べた。こちらも貴重な体験。明日は、マハシ(詰め物料理)とモロヘイヤのスープをご馳走になることに。楽しみではあるが、怖くもある。

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2001年7月11日

アスワンに到着。人が本当に温和で親切なのと、観光業従事者でも、カイロ・ルクソールほど商売熱心でうざったくないのだ。そして、街中の一般の人は、本当にフレンドリー。ただ暑い。ここだけは、7,8月にきてはいけないところだと改めて思った。ホテルは、今年の一月にOPENしたばかりというところに泊まった。新しいことはやはりいいことで、何もかもがきれい。値段も手ごろだった。
ホテル周りをしたあと、ヌビア博物館に入った。(暑さに負けたというのもあったが)ここはユネスコの援助でたてられたところだそうだが、日本にもないような、恐ろしく近代的できれいな博物館。紀元前1万年前の石器から古代エジプト文明時代のものや、キリスト教時代のものまで、きれいに展示されている。ヌビアの歴史なんて考えたこともなかったが、帰国したら本でも買って読んでみようと思った。夜、食べ物を買いに行く途中で、屋外に並べたいすに座っている、恰幅のいいエジプト人と話をした。お店の場所を聞いたのがきっかけで、しばらくいすに座って日本のことなど話をした。いつも、夕方以降はここに座って、知り合いがくれば話しをしたりお茶を飲んだりしてすごすとか。実際カフェでも、カフェでないところでも、とにかくいすを外にだして、ただぼーっと座っていたり、あるいは数人でとりとめもなく話をしていたり、という人が多い。女性は家のまわりで、近所の主婦や子供たちとやはり、わいがや過ごす。こういう近所関係っていいよね。

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2001年7月10日

ナイル川に浮かぶ島全体がホテルの敷地という、Movenpick Crocodile resort Luxorというホテルを訪ねた。いやー、別世界。橋を越えるあたりから、葦がおいしげる川辺や緑いっぱいのガーデンが広がり、ホテル内に点在するコテージは、部屋の前にチェア。あちこちに、木陰に座ってナイル川を眺めることができる場所がある。動物園もあれば、子供用の遊び場もあって、ヨーロッパ人の家族連れが(長期滞在なんだろうなあ)卓球などしている。8泊9日ギリシャ・トルコ・エジプトの旅・・・では、なかなかこういうのんびりしたスタイルの旅行はできないなあ。長期休暇がとれる国がやはりうらやましい。
夜、イシスホテルで働くみわさんと、彼女の子供(ハーフでむちゃむちゃかわいい)と3人でカルナック神殿の音と光のショーを見に行った。その途中、みわさんの家に寄ったのだが、周りのエジプシャンの人ととってもエジプシャンな近所関係ができていて(親戚状態以上?)、いいなあ、とうらやましくなった。

【外国語】
第一外国語は英語。大学ではドイツ語を選んだが、ぜんぜん覚えていない。それよりも、大学以外で講座を受講し、その後カイロで語学学校に入ったアラビア語のほうが、まだ使える。当時、簡単なけんかまではできるようになっていた。
ところで3年前、ドミニカに旅行に行くのでスペイン語を勉強した。不思議なことに、どうも、私の頭の中には、言語を記憶するスペースは3つしかなかったようで、スペイン語は、アラビア語を記憶していたところに入ってしまったらしい。「But」とか「Yes」とか「今」とか簡単な単語が、混じってしまう。ちょっと不思議。

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2001年7月9日

気球に乗った。昨日インターネットカフェでであったイギリス人に、スペースが空いていたら乗せてあげられる、と言われ、朝5時半にホテルをでる。すでに10数人のイギリス人がボートに乗り込んでおり、出発。西岸のラムセス二世葬祭殿(ラムセウム)近くの空き地には、膨らんで横たわった気球。私たちが到着すると、数分で気球は上に向かって大きく膨らみ、籠にのりこむと、まもなくふわりと浮かび上がった。あまりに静かなので、気が付かなかったくらいだ。

滞空時間は40分ほど。ハトシェプスト葬祭殿や王家の谷が目の前に広がる。やはり上空からしか見えないものってある。それは、ハトシェプスト葬祭殿や王家の谷の後ろに続く、赤っぽい茶色をした荒い岩肌の土地。そしてナイル川沿いの緑の帯。イギリス人キャプテンが、レバーのようなものを操作して火が噴出させたり、ロープをひっぱる旅に、気球は静かに向きを変えたり、上下に向かう。タダだったから・・・というのもあるかもしれないが、大満足。

【コネクタ】
日本で購入する家電製品も、AC100-240Vとなっているものが多く、変圧器をもっていく必要がない場合も多い。(ただ、アダプタが溶けるのでは?と思うほど熱くなり、不安だが)
ただし、エジプトのプラグの形はヨーロッパ式のため、コネクタが必要。ところが間違ったコネクタを持ってきてしまった。ショック。ところがホテルのスタッフに聞いたところ、「どこでもあるよ、そんなの。あそこの角の電気屋に行ってみろ。」といわれる。「日本だって、どこでも買えるものじゃないのに。。。」と思っていったら、箱いっぱいのコネクタを見せられ、すぐに必要な形のプラグのものが見つかった。1エジプシャンポンド。30円ちょっとだ。

ルクソールでは、電話のモジュラージャックが異なり、ネットにアクセスできない。もしかすると、これもすぐ手に入るのかなあ・・・と思って聞いてみると、3軒となりの店に電話機があったろ、そこで売っているよ、と言って連れて行ってくれた。こちらは5ポンド。150円くらいか。

モジュラージャックの形が混在しているというのもあるが、家電製品についても、海外で働きに行っている人が家電製品を買って持ち込んだり、いろいろな国から電化製品を輸入しており、日常的に必要なものなのかもしれない。
日本は、日本語の取説つき&日本仕様の製品しか通常は買わず、あまり気にしたことがなかったが、やはり便利。
それにしても、エジプトの家電製品って、相当、韓国製にとって変わられ始めているようだ。

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JOHO-KAN A.Wada<egypt@joho.st>
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